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社教育演劇研究協会 設立40周年によせて

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■次代のたんぽぽへ■
一九四五年、まだ劇団が篠ノ井道場の頃、吉田謙吉師の名代としてたんぽぽの仕事を始めて半世紀、今回の記念公演までよくぞやって来たとそのけなげさを思う今日この頃。しきりにたんぽぽのことを考えている。
ほんとうに子供が好きで、子供のための芝居づくりだけに専念された小百合先生。子供への愛情にささえられた五十年でもあった。
この心のなかにあって、今たんぽぽは次の世代に生まれつがれようとしている。このことは、どの世にあっても生まれ変わりへの宿命であり、子供たちへの愛情ある限り、消えないで続くものだと思う。劇団はさまざまな個性の集まりで、問題が山積みしているのが、常である。制作の得意な人、不得手な人、力のある人、ない人、芝居の上手な人、下手な人、熱心な人、駄目な人、お互いに補いあい、キズをなめあってこそ劇団は成立するのだ。
とりわけ仲間の中傷、批判は集団の命取りである。劇団が駄目になっていく例をいくつか経験し、見ているだけにこわい。
この一方、劇団に絶対欲しいのが、創造意欲である。創る喜びを感じることといってもいいだろう。演劇とは面倒なもので、いい芝居を創って子供たち、観客に喜んで貰う意義のようなものや、使命感だけでは長続きはしない。先ず芝居が好きが第一の条件である。好むと好まざるはさておき、確実に次代への移行のなかで、体験的な苦言だが、私は劇団たんぽぽが好きなだけに、皆さんが何時も心の片隅に考えていて欲しいと思っている。

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私がたんぽぽと拘わりをもったのは古く、昭和二十八年だんぽぽが長野県から浜松の元魚町に移転したときからである。
当時私は浜松ユネスコ協会の演劇担当の常任理事として道場に出入りしているうちに、小百合先生の恵まれない辺地の子どもにもナマの良い芝居を観世子どもの魂と触れあいたいという信念と情熱に次第に打たれていった。そして昭和四十年の二十周年記念公演では演出を引き受け以来数本の作品を書き演出してきた。
当然、劇団について各地を廻ることも多くなり劇団の実態も分かってきた。大劇団の俳優が六時の開演に悠々と四時に楽屋入りするのとは違って芝居の設備のない会場に、暗幕をはり、舞台を作り、ライトを吊し大道具をたてる。二十年選手も新米も等しく汗と挨にまみれて動き廻る。午前中に小学生午後には会場を替えて中学生を前に熱演することもざらである。それくらい良く働いているのにちっとも豊かになれない。私はそれをつぶさに見てたんぽぽをもっと世間の人々に知ってもらうべく「赤字路線」という一文をある雑誌に書いた。
それはローカル線を沢山抱えているが故に国鉄(JRの前身)の大赤字はなくならない。それと同じようにたんぽぽが貧乏なのも生徒数百人二百人の辺地の学校を巡演しているからであってそれをやめない限りたんぽぽの赤字は永遠に続き、それを強行すれば親方日の丸の国鉄はいざしらずたんぽぽはやがては再生産も出来なくなる(新しい芝居がつくれなくなる)であろうという要旨のものであった。
……にも拘らず依然として劇団は辺地の恵まれない子どもにナマの感動を合い言葉に北海道に沖縄にと精力的に活動を続けている。
最近でこそ芸術振興基金からの補助がありなんとかつじつまがあってはいるものの良くぞ五十年も続けられたと感無量である。同時に、次の五十年も是非頑張って貰いたいという気持ちで一杯である。

 

 

 

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